初めての江の島
横浜に住んで約30年になりますが、鎌倉へは行けど江の島へは渡った事がありませんでした。休みと天候に恵まれたので初めて行ってきました。久々の海は気持ち良かったです。気軽な感じで行ったのですが思ったよりも坂道が多く、見所満載で朝の10時から午後の4時位まで歩きとおしでなかなかのボリュームでした。また、日本三大弁財天を奉る江島神社は、田寸津比賣命を祀る「辺津宮」、 市寸島比賣命を祀る「中津宮」、多紀理比賣命を祀る「奥津宮」の 三社からなる御社で、日本鍼灸の発展に大きく貢献した「杉山和一」が修行で岩屋に籠もり現代の管鍼術のヒントを得た場所と言われています。鍼灸師にとってはある意味特別な場所となります。杉山和一がけつまづいたとされる「福石」が、出世のパワースポットとして人気もあるようです。
没年:元禄7.5.18(1694.6.10)
生年:慶長15(1610)
江戸前期の鍼術家。伊勢国(三重県)津生まれ。父は藤堂藩の家臣杉山重政。幼少のころ伝染病にかかり,失明。青年となり江戸の鍼術家山瀬琢一に入門したが,学も術も進歩せず破門をいい渡される。そこで江ノ島の弁財天の祠にこもり,7日間の断食祈願を行った。この結願の日に,帰り道にあった臥牛石につまずいて倒れ,松葉の入った竹の管を拾い,管鍼術のヒントを得たという。管鍼術は管の中に鍼を入れ,この管の上部に出ている鍼頭を示指で叩いて刺入するもので,日本独自のものとなった。のち京都に上り,入江豊明について,入江流の鍼術を学ぶ。江戸に出て開業したところ,門前市をなす盛況を呈した。寛文11(1671)年62歳にして検校となる。72歳のとき,鍼治学問所を設ける。貞享2(1685)年75歳のとき,将軍徳川綱吉の治療を行う。83歳で関東総検校となる。元禄6(1693)年,綱吉の「何かほしいものはないか」との言葉に対して「目がほしい」と答えたところ,本所一つ目に町屋敷をたまわった。翌7年5月18日病の床につき,6月26日に死去したが,遺言により5月18日を命日とした。著書に杉山三部書といわれる『療治の大概集』『選鍼三要集』『医学節用集』がある。『療治の大概集』は入江流の鍼術を,『選鍼三要集』は中国古典の鍼理論を,『医学節用集』は東洋医学の概論を述べている。いずれも明治13(1880)年に出版された。
(高島文一)出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
朝日日本歴史人物事典「杉山和一」の解説より